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Posted by ミリタリーブログ  at 

2018年01月19日

書籍より第1野戦病院を追う

またやってしまいました。
運転は20分位が限界。横臥してます。
サバゲしたい。いつ良くなるやら


さて、ネッツサーフィンをしていて先日第10師団第4野戦病院で軍医をされていた方の本をみつけました。
実は県からもらった曾祖父は軍歴、台湾から戦死までのことは一切記載されていません。著者は第4野戦病院、曾祖父は第1野戦病院ですが、所属が違えど同じ野戦病院なので何か得られるものがあるかと思い地元の図書館で無理を押して借りてきました。アマゾンにも売ってあったのですが1万超え。ちょうど悩んでた時にダメもとで図書館の蔵書を検索してラッキーでした。


まず分かったことは、彼が沈没を経験している可能性があること。
第10師団はルソン島逆上陸前、マニラ北部のサンフェルナンドで潜水艦の攻撃にあい、輸送船乾瑞丸が沈没しています。その乾瑞丸には2団に分散した第1野戦病院の将兵も乗船していました。また傍証になるかちょっと怪しいんですが、幼いころに曾祖父は船が沈没して戦死したと祖母から聞いたことを考えるともしかしたらもしかするかもしれません。


次に第1野戦病院の場所ですが、第10師団司令部が置かれたサンタフェから南西の地獄谷と呼ばれる谷間に第4野戦病院と共に置かれたそうです。バレテ峠も含めた位置関係は下の通り(多分)。サンタフェから南に俯瞰しています。第1野戦病院のほうがバレテ峠に近く書かれていましたが激戦地のバレテ峠から直線距離で3km程です。



そしてバレテ峠からカシブまでの転進路。本から読み解くと下のようなルート(たぶん)でカシブまで転進したようです。何分当時の読み方と今の表記が違っていて(例:モンギャン→マンギア)

兵団司令部は7月8日カシブ到着。そのご糧秣をもとめさらに東のピナパガンへ転進。7月10日にはすでに先遣部隊が出発しています。また第4野戦病院本部は7月18日にはカシブを発ち東進しています。著者の図では第4野戦病院と第1野戦病院が合わせて書かれてありますので7月後半には移動したものと推定されます。

ではなぜ曾祖父の死亡日時が8月6日で場所がカシブなっているか。
ヒントになるかもと思ったのは、野戦病将兵の分配配置。著者の方も途中から殿軍として一般部隊に配属されています。そして師団司令部がカシブを発ったのは8月7日で歩兵第10連隊に至っては8月15日です。また他書からの抜粋によると8月上旬に米軍機の爆撃に加えビラを落下するようになったとあり、カシブでも攻撃に晒されていたことが分かります。
それに加えて上記で書いた7月18日の転進と戦死日の隔たり、ピナパガンまでは攻撃というよりも如何に生きて到達するかに終始した内容で砲爆撃を受けた様子は見受けられません。そのことから曾祖父は著者と同じく他部隊へ抽出され、野戦病院と分かれカシブに残留し、8月7日砲弾の頭部破片創に戦死したのだと思います。

以上のことが今回借りた本で得られた情報と可能性になります。
第10師団はルソン逆上陸以米軍に加え来飢えと病気と戦い続けました。マラリアは全員が罹患していたので病気とみなされず、風土病や赤痢に加え米は逆上陸以来口にしていないとう健康状態は最悪のまま米で軍との戦いに突入、最後までそれらの事情か改善されませんでした。それに加え転進先で抗日ゲリラの襲撃、米軍の追撃に遭います。
またバレテ峠撤退時には連れていけない負傷兵には手榴弾と弾丸一発をこめた銃が配られたそうですが、カシブからピナパガンへの道程では渡す手榴弾もなく、連れていく体力もなく歩けない者は捨て置かれたとのことです。
第4野戦病院の生存率は16.9%。

8月6日前後のカシブの様子がもっと知りたいですね。第10師団司令部の詳報とかがればいいんでしょうか。
  


Posted by corgi  at 23:08Comments(3)日本陸軍